2011年10月13日木曜日

そろそろ警戒が必要

 手術から退院、仕事を再開しながら数度にわたる抗がん剤治療、抗がん剤の後遺症や片肺生活になれて現在に至る経過などはいずれ触れていくつもり。
 とりあえずは現在の状態について。
 一番大きな変化はなんといっても片肺での生活に折り合いをつけてやっていけるようになったということだろう。考えてみればあたりまえのことだけれども。退院した当初は片肺の現実を受け入れることを拒否したいという潜在的な意識があったようだ。Vikingとの散歩の距離をどんどん伸ばそうとしてみたりした。片道8km近くある仕事場との往復をVikingとの散歩を兼ねて強行して周囲を呆れさせたりしたのもこの頃だ。結局自分が疲弊して中止するはめになったのだけれども。
 できることを着実に積み重ねてやっていくという当たり前の生活スタイルが、ようやくこの2年で少し身についたかなというところ。
 摘出した左肺の部分は空洞になっているのだろうと私は漠然と考えていたが、担当医によると水がその部分を埋めているということだ。そして右肺が多少大きくなって左肺の欠落を補完しているらしい。手術後1年あまりのあいだ左肺の部分にずっと強い圧迫感があったが、いまではその圧迫感がないわけではないけれどもそれほど気になるものではない。大きく深呼吸をして胸郭を拡げると鈍痛が走って息を止めることもできなかったけれども、 これも問題なくできるようになった。もちろん左肺は空気に満たされないのでなにか変な不均衡感がある。風呂の中で息を吸い込むと左側が少し沈む。けれども、それにも慣れた。
 面白いことに息を吸い込むときに「チッチッ」という音が、わずかにだけれども聞こえる。起床して活動しているときには聞こえないのだが、就寝中にはよく聞こえる。音の正体が分からずまた他の部分の痛みにも悩まされて神経質だった当初はひどく気になったものだ。自分の体内から発する音だとは思えないほどちょっと無機質な音だ。多分左肺が気管支の先で切除されていて、息を吸い込んだときにその切除部分が振動して音を出すのではないかという結論を、今は出している。担当医に言ってもなにか「フンフン」という感じの生返事で、こちらもそれが一番の大事ではないので、それ以上聞かなかったのだけれども。患者をやってみないと分からないことがあるんだぞとも思う。
 足裏の感覚がまだら状に失われていて小さなマメをいくつも踏んでいるような感覚だけは、なんとかならないかと今でも思う。それでも退院当初の耐えきれないというものではなくなってはいる。慣れてきたのだろう。同様にわずかだが指先の感覚も多少失われているように感じる。抗がん剤の副作用や後遺症がいろいろなところで指摘されていて、私も読んではきた。それでも自分はそういう症状はないだろうと根拠なく思い込んでいたところがあったのだが、やはり自分にも来たかというところ。
 寒さが厳しくなる今頃から冬を越すまでは、要注意の時期だ。「片肺で気管支炎を被患すると命取りになりかねないですから 」と医師にも警告されている。きょう早めにインフルエンザの予約をとった。医院の話では今月の15日から接種が始まるようだ。気管支炎だけではなく、退院後日常の生活を送るようになって始めて知ったことだけれども、食事を喉につめてむせることも結構きつい。餅を食するときは注意、注意。

2011年10月11日火曜日

ニガッパヤ

1010日休日。気持ちのいい秋空に誘われて早い時間の散歩になった。午前中はVikingの大嫌いなバスタイム。2週ぶり。まだ生乾きの状態でJijiは休憩。Vikingの憮然とした表情のワンショット。


午後はめずらしくJijiがブログを更新。そのあと散歩。途中魚釣り中の親子に出会う。父親と男の子ふたり。「何を釣っているんですか」というJijiの問いにその父親が「ニガッパヤ」と答えるのだが、Jijiはなかなかのみ込めずに「え?」「え?」と聞き返す。何度かの同じやりとりのあと、ようやく「ニガッパヤ」と納得したJijiだったが、なにごとにかけても疎いJijiは魚についても疎いのだった。「ニガッパヤ」と聞いても、外国語を聞いているようで、そもそも正確な発音がわからない。ようやく聞き取っても「ハヤの一種ですか」という程度。とにかく「ニガッパヤ」という単語を憶えて帰宅してからいそいで調べた。その結果、ウィキペディアの記事は以下を参照。


 沖縄を除いて全国的に分布するウグイの一種だという。散歩で出会った子供のうち年長の子が写真を撮らせてくれたのが次の写真。
 
Vikingは興味深げにクンクン臭いを嗅いでいたけれども、「シットダウン!」の命令に、写真を撮る私の左側におとなしく鎮座していました。めずらしいことです。

 そのあと散歩も終わりのころ、咲く花も少なくなるこの季節に道端を飾る花を見つけました。それがこの写真。よく見かける花ですが、Jijiはこの花の名すら知りません。この花の名をどなたか教えてください。



2011年10月10日月曜日

がん発見の経緯

 2008年の秋だったと思うが、健康診断を受けた。血糖値が少し高いので念のために検査を受けるようにと紹介状がつけられていたものの、大きな問題がないという結果だった。この健診の少し前から咳がひどくなっていて咳き込み出すとなかなかおさまらないという状態が続いていたので、自分自身としては結核とか気胸の可能性があるのではないかと気になっていたのだが、とりあえずは胸部レントゲンの結果には何の問題もないということに安堵していた。今から10年ほど前にも同様の症状があったけれども半年ほど続いた後おさまったという経験があり、今回もそうだろうと軽く考えていた。
 しかし冬に入っても咳はおさまらず、体力が落ち始めた。食欲はあって結構食べていたのだけれども、漠然と変だなと思っていただけだった。長引く咳き込みがひどくなってはいったのだが、健診のレントゲン結果では問題がなかったということを理由に診断を受けずに延ばしていた。2月入るころからときおり左胸に鈍い痛みを覚えるようになった。3月には痛みが常態化しいっそうひどくなり、就寝中にも痛みで頻繁に目を覚ますようになった。それでも当初は体位を変えて痛みを紛らわすことができたが、4月にはそれではまったく睡眠をとれないような状態になってしまった。
 ことここに至っても今度は医者に何を宣告されるかとそれを恐れて躊躇しているのを見かねて、我が伴侶は私を車に押し込み、無理やり近隣の総合病院に連行した。5月の初旬だった。胸に痛みがあると聞いた医師は即座にレントゲン撮影を受けて診断結果が出るまでロビーで待つようにと指示した。このころは立っているのも椅子に座っているのも辛いほど衰弱していた。待ち時間は途方も長く感じられた。
 診断結果は「肺がん」IIIA期。手術待ちの5月から6月初旬のあいだ、毎週この病院に通って詳しい検査と投薬を受けた。が、このころの記憶はほとんど断片化していて、順序立った記憶がない。内視鏡によるがん組織の採取の際に、医師が何度も「どこだどこだ」と内視鏡の方向や深さを変えては探し回りついに「あったあった」という声をあげるまで、ひどく苦しい思いをしたこと。血液検査の際、注射針をうまく刺すことができずに何度も試みた挙句、ついには別の女性看護師に交代してしまったこと。CTスキャンの際に、ひどくなっていた胸部の痛みに耐えて手を伸ばすよう指示されてむやみに腹をたてていたことなど。もともと被害意識の強い私だが、自分がひどく痛い目に遇ったことだけは覚えているのが悲しい。
 まだこのころは手術と入院に備えて仕事の整理などもし車も運転していたのだが、診断の後の通院の際にも彼女は病院の送迎をさせるよう私に要求していた。通院をサボタージュするのではないかと疑っていたのだ。