JijiとVikingの1、2、散歩
愛犬バイキングとの散歩で見聞きしたことや、Jijiの生活の備忘録です。
2015年4月15日水曜日
歴史修正主義にしがみつく安倍極右政権
Vikingが死んだ
7日午前3時半ころ、Vikingの吠える声を聞いたような気がして飛び起きたまま、眠ることができずにいてこの報せを聞いた。土、日の週末が重なり入院は4月6日月曜の朝になってしまったことが悔やまれる。度重なる発作の合間に辛そうに呼びかけに応えるVikingを抱きしめるばかりだった。ともに過ごした最後の朝、それまで食が細り続け、すでに丸一日以上水以外何も口にしなかった彼は、最後の力を振り絞るようにして差し出された牛肉を平らげ、好きだった牛乳を飲み干したのだった。生き抜きたいという気持ちに駆られるように。
5年前の6月、私は肺がんで左片肺の全摘手術を受けた。退院は秋口だった。その後抗がん剤治療を経て年越えし、翌年3月相棒としてVikingを迎えた。生後7ヶ月のころだ。それ以来、ほぼ欠かさず朝夕の散歩をともにし、同棲してきた。彼なしの生活はいっときたりともなかった。その彼をこれほど早く失うなど、考えられなかった。失ったいま、目にし生活することのすべてが彼の生きた証と結びついている。
今はただひたすら悲しい。さびしい。
彼の追憶とともに、ずっとサボってきたこのブログを書き続けていこう。
2013年10月28日月曜日
ずいぶん放置してきたブログを再開----米NSAによる盗聴と安倍政権による日本版NSCと秘密保護法について
手術から4年半。転移、再発もなく大過なく生きている。が、不安と軽い後遺症はある。担当ドクターによると「問題ない。今後は半年ごとの検診にしよう」とのこと。このかん社会が大きく変わってきた。
2011年3月11日の東日本を襲った大震災と東京電力福島第一原発事故、そしてそれからの2年半は、私のような市井の一市民から見ても歴史が大きく暗転し始めようとする時代のように思える。
今日の記事から(MSN産経ニュース)
http://sankei.jp.msn.com/wired/news/130624/wir13062417390002-n1.htm
米NSAの情報収集活動を暴露したスノーデン氏だが、オバマ米大統領同意のもとで2002年からメルケル・ドイツ首相の携帯電話盗聴が行われていたことも明らかにしている。これは明らかに当時イラク戦争に対して反対を主張してきたドイツに対する対策であろうことは明白だ。米英の情報機関がきわめて密接にこのような情報共有を行ってきたことが明らかにされている。
米NSAの盗聴の実態は今日の朝日新聞に詳しい。
安倍政権が日本版NSCの設置や秘密保護法の成立を急ぐのは、米英との同盟の一角に食い込みたいということに他ならない。またその前提となる情報共有のための態勢を仕上げたいのだ。秘密保護法を巡っては、通常1か月のパブリックコメント期間を置くのに比してわずか2週間、しかも寄せられたパブリックコメントの7割以上が反対であったにもかかわらず、すでに国会上程している。集団的自衛権を、政府による憲法解釈の変更で乗り切ろうとするのも、米・英とともに戦争枢軸のなかに位置を占めたいということだろう。改憲で大騒ぎするよりも、多少無理があっても解釈改憲でやってしまえばいいという判断だ。
福島第一原発の危機や沖縄へのオスプレイ配備や辺野古への新基地建設は一歩間違えば安倍政権の足元を掘り崩す問題だ。これをウソと強権で乗り切ろうというわけだ。東京オリンピックの「狂騒」はそのための厚化粧にすぎないと思う。ひとつひとつきちんと批判していくことが大切だ。
2011年10月13日木曜日
そろそろ警戒が必要
とりあえずは現在の状態について。
一番大きな変化はなんといっても片肺での生活に折り合いをつけてやっていけるようになったということだろう。考えてみればあたりまえのことだけれども。退院した当初は片肺の現実を受け入れることを拒否したいという潜在的な意識があったようだ。Vikingとの散歩の距離をどんどん伸ばそうとしてみたりした。片道8km近くある仕事場との往復をVikingとの散歩を兼ねて強行して周囲を呆れさせたりしたのもこの頃だ。結局自分が疲弊して中止するはめになったのだけれども。
できることを着実に積み重ねてやっていくという当たり前の生活スタイルが、ようやくこの2年で少し身についたかなというところ。
摘出した左肺の部分は空洞になっているのだろうと私は漠然と考えていたが、担当医によると水がその部分を埋めているということだ。そして右肺が多少大きくなって左肺の欠落を補完しているらしい。手術後1年あまりのあいだ左肺の部分にずっと強い圧迫感があったが、いまではその圧迫感がないわけではないけれどもそれほど気になるものではない。大きく深呼吸をして胸郭を拡げると鈍痛が走って息を止めることもできなかったけれども、 これも問題なくできるようになった。もちろん左肺は空気に満たされないのでなにか変な不均衡感がある。風呂の中で息を吸い込むと左側が少し沈む。けれども、それにも慣れた。
面白いことに息を吸い込むときに「チッチッ」という音が、わずかにだけれども聞こえる。起床して活動しているときには聞こえないのだが、就寝中にはよく聞こえる。音の正体が分からずまた他の部分の痛みにも悩まされて神経質だった当初はひどく気になったものだ。自分の体内から発する音だとは思えないほどちょっと無機質な音だ。多分左肺が気管支の先で切除されていて、息を吸い込んだときにその切除部分が振動して音を出すのではないかという結論を、今は出している。担当医に言ってもなにか「フンフン」という感じの生返事で、こちらもそれが一番の大事ではないので、それ以上聞かなかったのだけれども。患者をやってみないと分からないことがあるんだぞとも思う。
足裏の感覚がまだら状に失われていて小さなマメをいくつも踏んでいるような感覚だけは、なんとかならないかと今でも思う。それでも退院当初の耐えきれないというものではなくなってはいる。慣れてきたのだろう。同様にわずかだが指先の感覚も多少失われているように感じる。抗がん剤の副作用や後遺症がいろいろなところで指摘されていて、私も読んではきた。それでも自分はそういう症状はないだろうと根拠なく思い込んでいたところがあったのだが、やはり自分にも来たかというところ。
寒さが厳しくなる今頃から冬を越すまでは、要注意の時期だ。「片肺で気管支炎を被患すると命取りになりかねないですから 」と医師にも警告されている。きょう早めにインフルエンザの予約をとった。医院の話では今月の15日から接種が始まるようだ。気管支炎だけではなく、退院後日常の生活を送るようになって始めて知ったことだけれども、食事を喉につめてむせることも結構きつい。餅を食するときは注意、注意。
2011年10月11日火曜日
ニガッパヤ
午後はめずらしくJijiがブログを更新。そのあと散歩。途中魚釣り中の親子に出会う。父親と男の子ふたり。「何を釣っているんですか」というJijiの問いにその父親が「ニガッパヤ」と答えるのだが、Jijiはなかなかのみ込めずに「え?」「え?」と聞き返す。何度かの同じやりとりのあと、ようやく「ニガッパヤ」と納得したJijiだったが、なにごとにかけても疎いJijiは魚についても疎いのだった。「ニガッパヤ」と聞いても、外国語を聞いているようで、そもそも正確な発音がわからない。ようやく聞き取っても「ハヤの一種ですか」という程度。とにかく「ニガッパヤ」という単語を憶えて帰宅してからいそいで調べた。その結果、ウィキペディアの記事は以下を参照。
そのあと散歩も終わりのころ、咲く花も少なくなるこの季節に道端を飾る花を見つけました。それがこの写真。よく見かける花ですが、Jijiはこの花の名すら知りません。この花の名をどなたか教えてください。
2011年10月10日月曜日
がん発見の経緯
しかし冬に入っても咳はおさまらず、体力が落ち始めた。食欲はあって結構食べていたのだけれども、漠然と変だなと思っていただけだった。長引く咳き込みがひどくなってはいったのだが、健診のレントゲン結果では問題がなかったということを理由に診断を受けずに延ばしていた。2月入るころからときおり左胸に鈍い痛みを覚えるようになった。3月には痛みが常態化しいっそうひどくなり、就寝中にも痛みで頻繁に目を覚ますようになった。それでも当初は体位を変えて痛みを紛らわすことができたが、4月にはそれではまったく睡眠をとれないような状態になってしまった。
ことここに至っても今度は医者に何を宣告されるかとそれを恐れて躊躇しているのを見かねて、我が伴侶は私を車に押し込み、無理やり近隣の総合病院に連行した。5月の初旬だった。胸に痛みがあると聞いた医師は即座にレントゲン撮影を受けて診断結果が出るまでロビーで待つようにと指示した。このころは立っているのも椅子に座っているのも辛いほど衰弱していた。待ち時間は途方も長く感じられた。
診断結果は「肺がん」IIIA期。手術待ちの5月から6月初旬のあいだ、毎週この病院に通って詳しい検査と投薬を受けた。が、このころの記憶はほとんど断片化していて、順序立った記憶がない。内視鏡によるがん組織の採取の際に、医師が何度も「どこだどこだ」と内視鏡の方向や深さを変えては探し回りついに「あったあった」という声をあげるまで、ひどく苦しい思いをしたこと。血液検査の際、注射針をうまく刺すことができずに何度も試みた挙句、ついには別の女性看護師に交代してしまったこと。CTスキャンの際に、ひどくなっていた胸部の痛みに耐えて手を伸ばすよう指示されてむやみに腹をたてていたことなど。もともと被害意識の強い私だが、自分がひどく痛い目に遇ったことだけは覚えているのが悲しい。
まだこのころは手術と入院に備えて仕事の整理などもし車も運転していたのだが、診断の後の通院の際にも彼女は病院の送迎をさせるよう私に要求していた。通院をサボタージュするのではないかと疑っていたのだ。